3曲目: Igor Stravinsky : バレエ音楽「春の祭典」

 非常に残念ではありますが、三年前の演奏の方が良かった。 その時の演奏はラジオで聴きましたが「をを、無茶をするなぁ」とまあ聴いていて嬉しくなって来たものです。 しかし、今回の演奏は…少なくとも前半は良い所がほとんどありませんでした。
 しかも困った事に私はこの曲が大好きで曲の構造に関する知識が多少なりとて あります。楽譜とにらめっこをし、様々な演奏を聴き比べる内に一種の理想像さえ 構築してしまっています。 私はその「理想像」を良い意味で裏切ってくれる事を期待していましたのですが…。 まあ全体的にダメだった訳ではないし、 最後は聴いていて異様に盛り上がったので別に構わないんですが…。

 先ず冒頭のファゴット・ソロ。 稟とした音が響き渡る幸先良の良い出だしでした。 このソロの最初のフェルマータを過ぎると…テンポが妙に速い。 いや、テンポ設定が速いだけと云うのならば何ら問題はありません。 しかしゲルギエフは気合いが入りすぎているのかオケを置き去りにしてしまったのです。 あそこまで行ってアインザッツやらアンサンブルやらの乱れを心配しなければ いけないとは思っても見ませんでした。
 幽玄な雰囲気を醸し出すでもなく明徹に響くでもなく、ちぐはぐなまま曲は 「春の兆し」へ突入してしまいます。 「序奏」が速すぎた事もあってこれまた妙に速い。 しかし、例によってオケは乗りきれていないのでノリが悪い。 ピッコロトランペットのつんざくような音もホルン・ソロも届いて来ない。 盛り上がりに欠けるなぁと思っている内に「誘拐」に突入してしまっていました。 するとこれまたホルン・ソロろくに聞こえて来ない。 この曲は重要な所にホルンの見せ場が沢山あります。 如何にそれを聴かせてくれるのかを楽しみにしている私はどんどん不安になって いってしまいました。
 しかし、さすがにゲルギエフが落ち着いて来たのかオケが乗って来たのか 次第に「ゲルギエフらしい度肝を抜かれるような表現もちらほらと聞こえて来るようになって来ました。 しかし全体的には相変わらずなまま。 特に金管の調子が良いんだか悪いんだかさっぱり判らない。 そして曲は「春の踊り」へと突入します。 個人的にはこの曲が一番好きなので期待と不安は膨れ上がります。
 Esクラリネットバスクラリネットとのソリはまずまず。 中学高校とバスクラを吹いていた私は妙に楽しくなってしまいました。 しかし、ソロが終った後のバスクラ二本とヴィオラチェロに依る裏打ち系のリズム?がよく聞こえない。 何か、こう残念。 しかしメロディーは妖しげな雰囲気を醸し出している(この曲に於ける褒め言葉です) のが何とも良い感じでした。
 さて「春の踊り」も佳境に入りffになって全オーケストラが咆哮します。 …ここぞとばかりに鳴らして来ました。 今までは何だったんだ? その後は妙な問題点や聞こえて欲しい音が聞こえない部分があるものの 概ね順調に曲は進行して行きました。 ちなみに「大地へのくちづけ」(四小節しかないのに40位かかる曲) は妙に速くてあっと云う間に終ってしまいました。
 しかし第一部の最後はチューバを始めとする上昇音形の咆哮がリズムに埋没 してしまったまま終ってしまい欲求不満になってしまいました。 いくらメロディーが無いとは云ってもあれはちょっと寂しい物がありました。 が、それまで飛んだり跳ねたりしていたゲルギエフが第一部が終了した時に タクトを頭上に振り上げたまま第二部を始めるまでじっと固まっていたのは 見ていて面白かったです。

 さて曲は第二部に突入です。響きの美しさも段々と復活して来たかに見えました。 が、何処かしら精彩が欠けています。 を想起させるアンサンブルも、 ヴァイオリン・ソロから始まる胸を締めつける切ない一連のメロディーも何故かよそよそしくちぐはぐに聞こえて来るのです。
 後で考えてみれば、その時もやはりオケ全体の統率を取り切れていなかったのだと 思います。 「中国の不思議な役人」に於いてクラリネット・ソロ何処までも美しかった理由の一つはソロを支える弦の響きが微弱な音量ながらもしっかりしていた ということでした。 実に残念な事にそれと第二部の「序奏」とは対象的な物を持っていました。
 そして曲は二本のトランペットに依るpでの掛け合いへと進みます。 幽玄な雰囲気と極度の緊張感を持つこの部分は例によってどう演奏してくれるかが 楽しみでした。…如何にも余裕の無さそうな演奏ではありました。 が、これに関しては敢えて文句をつくまい。そう思えました。 何しろpであれですからね。 そして「序奏」最後の四小節。 これは先のトランペットの掛け合いをホルン・ソリの掛け合いに置き換えたような場面です。 ここではバスクラリネットが単独で伴奏を吹いているのですが…聞こえなかった。 最後のチェロ・ソロが良い味を出していたのに、 伴奏に気を取られてしまって楽しめなかったのが実に残念。
 何か今一つのまま次の「乙女達の神秘な集い」に突入してしまいましたが何故かいきなり調子が良くなりました。 これが終ると一般に「訳判らん」と云われる変拍子混合拍子の乱舞が始まります。 それを目前に控えた所に全曲を通して一番美しいと 私が勝手に思っている部分があります。
 それは6/4二小節単位のメロディーを楽器構成と和音構成を変化させながら 四度に渡って繰り返す部分です。 特に最初のホルンに依る部分と次のを基調にした主メロディーとクラリネットのカウンターとの競演の部分がしっかりしているか否かは「春の祭典」全曲に対する印象に如実に関わって来ると思っています。
 そしてとうとう演奏はその部分に差し掛かってしまいました。 もしかしたら調子が悪いのかもしれないホルンは果してどれだけ魅せてくれるのか? クラリネットの調べはどうか?期待と不安が一気に膨れ上がりました。 結果は実に素晴らしいものでした。思わず涙が出そうになりました。

 やがて11拍に渡る打撃音で「乙女達の神秘な集い」が終ると「いけにえの賛美」に突入し、第二部の狂乱の宴がようやく始まりました。 複雑なリズムの下で凶暴な音が飛び交います。 しかし、例によってホルンが見せ場で今一つ音が出て来ない。 やはり疲れてしまっているのだろうか?
 その後「ゲルギエフらしい」度肝を抜かれるような表現を惜しみなく振りまきながら曲はとうとう終曲「いけにえの踊り」に突入します。
 ちなみに「いけにえの踊り」の最初の一拍、というより一小節は非常に面白い構成をしています。 その小節は3/16の一拍子です。 その内最初の十六分音符は前曲「祖先の儀式」の最後を飾るバスクラリネット・ソロ下降音形最後の一音です。これは緊張感に溢れるもppで演奏されます。 ここまではもしかしたら前の曲と言っても良いかも知れません。 次の十六分音符は弦の合奏による強烈な一撃です。 強制的に場を展開してしまいます。 そして最後の十六分音符は完全に無声で、フェルマータまでついています。 この休符のタメが極限まで緊張感を高めてくれるのです。 ストラヴィンスキーは全く凄いことをしてくれたものです。
 やがて30程で曲は緊張を持続させたまま「弦が刻むだけ」の比較的大人しい部分に入ります。 ここは楽譜を見るとアクセント等はほとんど指定されていません。 しかしそこはそれ、ゲルギエフが事細かに指定したらしいアクセントなどの表情付けが泣かせてくれましたホルンと並んで調子が良いんだか悪いんだか判らなかったトロンボーンも気合いの入った掛け合いを見せてくれました。
 やがて「刻むだけ」の部分が終り、「いけにえの踊り」の最初の30とほぼ同じ物を演奏すると「いけにえの踊り」は時間的にちょうど折り返し地点に辿り付きます。 問題はその次です。 パーカッション強烈なリズムで進行する部分が始まるのですが、その途中からホルンが全員でリズムを三小節に渡って刻み始めるのです。 それはそのままメロディーに突入するのですが、そのリズムパターンからメロディーに雪崩込むホルンここぞとばかりに鳴らしてくれると物凄く格好が良いのです。 しかしながら世間一般に流通しているCDの多くリズムパターンの方が全く聞こえて来なかったりするのです。後のメロディーさえ聞こえない物もある。
 前述の通りホルンパートの調子が今一つのまま進んで来たので、この部分を前に私の興奮と緊張は最高潮に膨れ上がりました。 そしてその結果は…ああキーロフのホルン吹きの方々よ、よくぞやってくれました。 しっかりと聴こえて来ました。名誉挽回の強烈な一撃を見事くらわせてくれました。 ああ、生きていて良かった
 そして曲はとうとう最後に辿り着きます。 前回ゲルギエフが来日した時に演奏した「春の祭典」の最後の三小節は これ以上無いくらい引き延ばされていました。これがまた面白い。 あれを聴いた時はあまりのことにくらくらしてしまったものです。 今回はそれに比べるとややあっさりとしていたような気もします。が、それでも相当な引き延ばし方でした。 その引き延ばす特異な演奏の最中に「ああ、これで全てが終ってしまうのか」と 思えて来て複雑な気持ちになった事を憶えています。

 結局の所「春の祭典」は多くの問題を抱えつつも成功の内に演奏を終えたようです。 私も「惜しみの無い拍手」というものをやらせて頂きました。
 しかし、やはり選曲に難ありだと思いました。 どうせ「春の祭典」を聴くのならもっと万全の体勢で挑んだものが聴きたかった、 という意識を払拭する事だけはとうとう出来ませんでした。 そしてアンコールの「火の鳥」がとんでもない名演だった(無論疲れから来るミス等は結構あった)ためその思いは更に強くなってしまいました。
 良かった。けれどもダメだった。そんな「春の祭典」でした。 もしこの演奏をテレビCDで聴く事になったらその時はどういう感想を持つ事になるのか。 それが今から楽しみでたまりません。
 いずれにせよこの曲のCD録音日程が大抵数日に渡っているのにはそれなりの理由がある、と云う事はよく解りました。


<余談>

 上記の文章を読むと相当酷かったように見えます。 まあ、実際ぼろぼろだった訳ですが…。 しかし「ゲルギエフらしさ」は随所で見受けられました。 「オーケストラには個性と云う物がある。 私は十秒聴けば『キーロフ管だ』と判るような音を目指している」 という旨のことをゲルギエフは言っているようですが、伊達じゃありませんでした。
 音楽は上手で完璧だったらそれで良いと云う物ではありません。 その点ゲルギエフは「客を楽しませる」ことにかけては達人だと思います。 彼らの次の演奏会をいつかまた聴きに行ける日が来る事を願わずにはいられません。
 しかし、面白ければそれで全てが許されると云う訳でもないと思います。 頼むから崩壊させないでちゃんと演奏してくれ、ゲルギエフ。


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