アンコール: Igor Stravinsky : バレエ音楽「火の鳥」全曲版より抜粋

 この日のトリを飾ったアンコールがこの日一番の出来だったと云うのは皮肉と取るべきなのでしょうか。 少なくとも私は好意的に取りたいと思います。
 考えても見て下さい。 拍手の嵐の中ゲルギエフが「ストラヴィンスキー…ダンス…」と何かを言い、くるりと客席に背を向ける。 それだけでも期待に胸は膨らみ興奮で手に汗握ると云うものです。 そしてタクトを振り降ろすや否や「魔王の狂悪な踊り」の最初の強烈な一撃が轟き渡ったのです。
 あの一瞬、頭の中は真っ白になり「嘘だろ〜〜っ!」と叫びたくなるほどでした。 体力と神経をすり減らしつつ「役人」から「春祭」までを吹ききったのはそのほんの五分程前のことに過ぎないのです。
 しかも「アンコール」ということで後を続けないのかと思いきや、 そのまま最後まで演奏してしまったのです。それも長い全曲版で。
 時々最後に演奏すべく用意した「大曲」の為に前座たる数多の楽曲を 犠牲にしているとしか思えないようなコンサートがあります。 そういうコンサートに出くわすと私なんかは怒りしか感じません。 しかし、このコンサートはそうではないのです。 さすがはプロ!さすがはエンターテイナー!ゲルギエフ、あんたは悪魔だ!

 さて肝心の演奏の質はどうだったのでしょうか。 少なくとも「疲れを感じさせない」とは云えませんでした。 まあ、これはその一場面をのみ抜き出して考えれば「残念」としか言いようがありません。
 例えば「魔王の狂悪な踊り」は全体的に激しい曲です。 そこへ来て金管軍団の疲れは如実に音に出て来てしまっていました。 酷い話になると、あらら?人数が足りなくありませんか?ホルンさん?という状況(拍手の嵐の最中に何人かの楽団員は先に退出していた、ような気がするが…)に、 最初の部分にあるホルン・パートに依る咆哮は何故かソロと化していました。 して、そのソロ。まあはっきり言えばぼろぼろでした。 しかし気合いだけは飛んで来るのです。 よくぞ頑張った!としか言いようがありませんでした。
 そして、そういう部分は随所に見られたのです。 楽団が全体的にノって行くのが解るのです。 ここまで来ると件の「残念さ」も物の数には入らないと云う物でした。
 そして「魔王の狂悪な踊り」も佳境になると例によって ゲルギエフらしい「とんでもない」演奏を見事に聴かせてくれました。 それは唖然とする程の速さでした。 そして今度は「春の祭典」の冒頭の雪辱と云わんばかりにオーケストラも しっかり付いて来たのです。 そしてエンジンが高速回転しているような絶叫とともに曲は「子守歌」へと突入しました。

 この時私は「子守歌」を演奏するかをその時になるまではらはらしながら考えていました。 「魔王の…」は組曲版であればそのまま演奏を終える事も出来ます。 しかし、例え組曲版であったとしても「子守歌」を演奏してしまえば勢い「大団円」を演奏せざるを得ません。 プロとは云えそこまで体力は持つのか?ぼろが出る結果にはならないのか?
 そんな事を考えていた所為もあり、曲が全曲版の滑らかさを以って「子守歌」へと推移した時の感動と云ったらありませんでした。 無論それは演奏自体への感動ではなく、演奏しようとする強者達への感動でした。

 そしていよいよ見物とばかり聴く側たる私も気を落ち着けて「子守歌」に臨みます。 もともとゆっくりなこの曲が一段とゆっくり流れて行きます。 オーケストラはよく統制されメロディーを誘導します。
 そして、ファゴット・ソロ。 どこか寂しげなその調べは穏やかに、しかし情熱的に場内に響き渡りました。 そしてそれを支える弦の調べ。 もう聴き惚れるしかありませんでした。 生きていて良かったと素直に思える一時でした。
 やがて曲は流れ「子守歌」中ほとんど唯一と言って良いグロテスクな部位(組曲版に無い部分、とも言う)さえも悲哀情熱をたっぷりに演奏するといよいよ「大団円」へと突入します、普通ならば
 しかし、ゲルギエフは普通ではなかった
 「子守歌」の最後には「大団円」へとつながる音階的弦の調べがあります。 そこは普通の演奏ならば30秒程度で演奏し終ります。 ところがゲルギエフはそこを通常の三倍以上はあろうかと云う超々スローテンポで演奏したのです。
 いや、その表現はおそらく不正確でしょう。 ゲルギエフはテンポを三倍にの遅さにしたのではありません。今か今かと逸る気持ちを矯めて一つ一つの音を極限まで丁寧にそして情熱的に表現して見せたのです。 その結果テンポがそういう風になった、と云う事なのです。 音量的には「微か」としかいいようのないその調べには 燃え盛る情熱の炎が確かに感じられたのです。 いつ果てるともないあの響きはゆっくりと、しかし着実に進行して行きました。
 そしてとうとう曲は終曲「大団円」へと突入しました。 依然として緩やかなテンポの上にホルンのソロが穏やかにしかし情熱的に奏でられました。 正に悪逆たる魔王の魔法は消失し、石にされていた者達が目覚める様が 目に浮かぶようでした。
 そして6/4の間はこの調子でゆったりと演奏されました。 ここで注意すべき事は、音量はともかく情熱は「子守歌」の段階から常に限界まで放出されていた、と云う事です。 緩やかなテンポのまま曲が進行するにつれ音の構成要素は増え、 個々の楽器の繰り出す音の大きさも次第に大きくなって行きます。 しかしそれは無声状態から大音量への飛躍などと云う物ではなく、 溢れんばかりの情熱へ音量的にも追い付いたと云うべき物だったのです。
 私は常々pppfffと云った記号はただ音量を表しているのではない、そう指導されて来ました。 私もその教えを理解しているつもりでした。 しかしこの演奏はその意味を改めて認識させてくれました。 ダイナミックレンジの大きさの何たるか思い知らされました。 この一時のためにこのコンサートはあった、 と言っても過言では無かったかも知れません。

 そして曲が十分に盛り上がった所で拍子は7/4になりテンポも急変して速くなりました。 軽快で且つ力強いその演奏は疲れなどもはや微塵も感じさせません。
 そしてクライマックス。 曲の最後の最後をじっくり演奏させて必要以上に盛り上げるゲルギエフお得意の表現をたっぷりと聴かせてもらいました。 最後の長い長いクレッシェンドを良くもまあ保てた物です。 素晴らしい。あまりに素晴らしすぎる。

余談

 実に素晴らしい美しく情熱的な演奏でした。 しかし、哀しいかな。 私はストコフスキーの「爆烈」としかいいようのない組曲版の演奏をたまに聴きます。 その演奏の凄まじさは他に類を見ないのです。 困ったことに私はその演奏に慣れすぎてしまっているのです。 お蔭で激しく燃え盛るような部分に於いては他のどんな演奏を聴いても物足りなく感じてしまう という弊害に襲われているのです。なんだかなあ。
 この禁断の演奏はLONDON(DECCA)から phase 4 stereo concert seriesの一つとして出ています。 「展覧会の絵ストコフスキー版とともに収録されている物がおそらく流通しているでしょう。 私が持っているCDの型番はPOCL-9882です。 一度は聴く価値があります。絶対あります。 しかし、あれを標準と考えるのはきっとおそらく多分間違っているでせう。


戻る